もやの音

北海道在住、教育関係者です。日々とりあえず気になったこと(もやもやしたこと)について、敵を作ってしまいそうな物言いをするブログです。

町田総合高校の件について

また教師の体罰問題が出た。といっても、今回のものはいつものパターンと毛色が違う。世間の反応という点で。どうやら殴った先生側を養護する声のほうが圧倒的に多いようだ。

教育に携わる者として今回の件、私は「殴ったほうが悪い」という結論を出す。なぜなら、殴るという方法をとらずとも場を切り抜ける方法があるから。これは決して理想論でもないし、教育関係のお偉いさん方に阿るものでもない。ましてや尾木ママの世迷い言に賛同するわけでもない。ただ、現在のルールではこう判断せざるを得ないということだ。

世の中、感情的になったほうが負けである。感情のぶつかり合いだけでは、根本的な解決には至らない。高校生くらいであれば粋がりたくなる気持ちがあるのは百も承知。相手をなめた態度で自己を何とか維持している悲しい輩もごまんといる。そのような人たちに対し、真正面から向き合おうとしてはいけない。なぜなら、単純に何も良いことが起こらないからだ。

一昔前までは根性論や人情というもので人の心を大いに動かすことができたであろう。しかし、今は人々が膨大な量の情報にさらされ、嘘も真実もごちゃ混ぜになって浮遊している時代である。自分に都合の良い情報だけを選び取り、あらゆることを誤解したまま大人になってゆく者に、人情や根性など通用しない。そのような人が納得するのは、「すでに決められたルール(自分に都合の良いものに限る)」だ。そのルールができた経緯など全く知らずに。

すでにたった少しの世代違いにより、全く話が通じなくなっているのである。常識だと思っていたことがそうではなくなり、新たな価値観を作り上げ続けながら社会は動いているわけだから。

今のルールでは、殴ったほうが完全に悪。それは曲げられない。そして、生徒の方が教員よりも守られているのも現実。先生方、本当にご苦労様です。これから、何を求めて教師を続けていきますか?

教師の立場を爆上げしろとは言わないが、少なくとも学びに来る姿勢でない者は排除できるような制度を作ってほしいものである。しっかりと学びきることができたという証明として「卒業証書」を受け取るという形に、是非なって欲しい。

高校で謎なのは、全く学ぶ気がないのにもかかわらず、学校に来る生徒。何しに来ているのか。こちらからお願いして通ってもらっているわけではないし、彼らがいることで何かメリットがあるわけでもない。強いて言えば月々の授業料を納めてくれるという点では良いのかもしれないが、その授業料と先生方のストレスの大きさを天秤にかけたら、いてくれる必要性を感じない。

高校に来ているにもかかわらず学ばず、人に迷惑をかけ続けている人たちについて、全く無意味とは思わない。社会にはそのような人が必要となる場合もある。これについてはまた次に述べようと思うが、とにかく「高等学校とは何か」ということを今一度考え、よりよく役割を果たすことができるように変えていけたらと思うのである。自分が偉くなるしかない。

センター試験のこと

センター試験が近付いている。北海道は悪天候のため、受験生が無事に受験を終えることができるか、若干ハラハラする。

各高等学校の先生方、おそらく当日の朝はセンター試験会場に赴き、受験生にエールを送るため寒い中で自校の生徒を待つのだろう。その真面目さや思い入れには頭が下がる。風邪などひきませんよう。

さて、そんな先生方には大変申し訳ないのだが、私はセンター入試の応援を「しなければならない」と考えている人がいることに驚いている。受験場所が近隣であるならば百歩譲ってアリかとも思うが、受験会場まで車で2時間弱の移動が必要な学校の教員が、わざわざ前日から年休を取ってまで応援に行く必要はあるのか、と思うのだ。

受験生からしたら、受験のために面倒を見てくれた先生が「頑張ってね」と言ってくれたらある程度は嬉しいだろうが、「先生が応援してくれたから頑張ろう!」となる生徒が一体どれくらいいるのだろうか。冷たい言い方になるかもしれないが、コストを考えれば何とも無駄に思えて仕方がない。

色々と批判があるのは分かっている。しかし、ではなぜ大学受験の時だけ応援に行き、専門学校や一般就職の時はそうしないのか。どの種類の試験にしたって「人生の門出につながる大事な試験」には変わりない。「センター試験だから応援に行こう」という先生方に対して、どうしてもモヤモヤ感を抱いてしまう。

先生方と話していると、本当にこのような、「どうしてそうなっているのか」を考えさせられるケースが多い。

意気揚々と新学習指導要領についての内容を語る先生。しかし、どのような経緯で学習指導要領が改訂され、何を目指しているのかまでは話が及ばない。恐らく考えていないのだろう。

観点別評価を形にするために、必死になって謎のフォーマット作りに勤しむ先生。しかし、そもそもなぜ観点別評価が必要なのか、その根本まで話が及ばない。恐らく疑問に思っていないのだろう。

人間関係を主とした職場の環境や、教育関係のお偉いさん方との接触にやたらと敏感で、ネガティブな感情を抱いている先生。しかし、なぜそれほどまでに人間関係でびくつく必要があるのか、論理的な話は出てこない。恐らく感情が優位に立っているのだろう。

挙げればキリがないのでやめるが、「そもそもどうしてこうなっているのか・そう考えているのか」を見失っている人が多いような気がする。これから先の未来では、常に既存の物事に対して「本当にこれでよいのか」という眼を持つことが必要なはず。自己の感情や他者との馴れ合いを抜きにして。

なぜなら、社会の構造が一変しているから。大学に行くことが将来の安定につながるなどという時代はとっくに終わっている。「身を立てるために学問を」という考えがあったのは確かだが、そんなのは遙か昔の話。

養老孟司氏は著書「バカの壁」で『人間は働かなくても生きていくことができるような世界を作るために必死で働き、それを実現してきた。しかし、働かなくても生きている人間の究極の形であるホームレスが出現すると、それを社会問題にした。』と言っている。つまり、正しいと思って頑張ってきたことにより、新たな問題が出てきてしまったということだ。

だから、今自分たちがやってることや考えていることが本当に大丈夫なのか、随時考えていく必要があるのではないか。

普段からあらゆる事に疑問を持たない先生方では、「なぜ」という眼を持つ生徒を育てることはできない。

と、偉そうなことを言う私も、十分に日頃から「なぜ」という視点を持てているわけではない。だから、このブログを通して「なぜ」の眼を鍛えたいと思っている。